この何気ない一日のキセキ

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アラフィフ主婦が『今を楽しく、気楽に生きる』ために今から人生を再始動させていくブログ

神話と万葉の里へ行く

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神話と万葉 恋の里さんぽ

こんにちは。”ふたり暮らし”のReiです。

先週末、気になっていた場所へ行って来ました。

いつも私の実家に向かう道中に景色の素敵な場所があります。何か歴史が埋もれていそうな気がしていました。その近くに『古墳』の文字が出ていたからです。

ですが交通量も多いところで、いつも車で通るだけ。

いつか行きたいと思っていました。
でもなかなかね、重いお尻…いやいや(;'∀')重たい腰が上がらなかったんですよ。

今回、念願叶って(?)行って来ました♪

そこは素敵な話が残る場所

 目指したのは、福岡県田川郡香春町。道の駅「わぎえの里」から見おろせる集落です。

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道路からはこんな風に見えます

私は古墳の看板を見て以来、左手に見えるこんもりしたものが古墳だと思い込んでいましたが、実際に行ってみるとその奥にもっと小さな丘があって、そこが古墳だと知りました。
(写真に透かしを入れていて、見にくいかとは思いますが)どこにでもある風景のようで、でも何だか素敵なものが秘められているような気がします。

そこには古(いにしえ)の二組の夫婦の恋の物語がありました。

いや別に、恋の話が好きとかではないのですが、ちょっと感動したのでご紹介したいのです(*'▽')

万葉の恋の物語

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(左)古墳までの道 (左)古墳

古墳は通称外輪崎古墳、『勾金陵墓参考地』となっており、奈良時代の皇族、河内大王(かわちのおおきみ)の墓とされています。明治に入り、宮内庁指定の陵墓参考地となったようです。

天武天皇の子と言われる河内大王が、太宰帥となり、この辺りにも来られたようです。

この地で崩御されたとのことですが、河内大王を悼み、手持女王(たもちのひめみこ/たもちのおおきみ)が万葉集に三首の歌を残しています。

手持女王は河内大王に「同行した」ともいわれていますが、出身などは明らかになっていません。都から一緒にやって来たのか、河内大王がこちらに来てから出会ったのか、想像するしかないようです。
そして、妻とも恋人ともいわれています。

そんな彼女が大王をこの地に葬るときに詠んだ歌がこちら。

『大の 親魄逢へや 豊国の 鏡の山を 宮と定むる』
(おおきみの むつたまあへや とよくにの かがみのやまの みやとさだむる)

現代語訳:なつかしいあなたの御心によほど叶ったのだろうか。あの遠い豊国の鏡の山を墓所と定めなさったのは。

石戸破る 手力もがも 手弱き 女にしあれば 術の知らなく
(いわとわる たぢからもがも たよわき をみなにしあれば すべのしらなく)

現代語訳:お墓の石の戸を破り河内大王を呼び出したいが、か弱い女であるので、その術がありません。

豊国の 鏡の山の石戸たて 隠りにけらし 待てど来まさず
(とよくにの かがみのやまのいわとたて こもりにけらし まてどきまさず)

現代語訳:河内大王は豊国の鏡山のお墓に石戸を立てて籠ってしまわれたらしい。いくら待ってももう帰っては来られない。

 亡くなった大王を悼み、その悲しみを素直に詠まれた歌だと思いました。
お二人の絆の深さを感じます。

また手持女王がこの地に立たれて詠まれたかは分かりませんが、もしこの地に立たれたとしたらどんな装いでどこを眺めていらしたか…そんな想像をすると、まるで当時の世界を歌を通して見ているような気分になりました。

神代の恋の物語

つぎは神々がこの国を支配していた時代のお話。
日本神話の世界ですね。
日本武尊の皇子であると言われる、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)とその后の神功皇后(じんぐうこうごう)のお話です。

その昔、仲哀天皇熊襲討伐に筑紫に向かわれるも崩御された。その後、神功皇后天皇の遺志を継ぎ、熊襲を討伐後、熊襲の後ろ盾とされた新羅百済、高麗(三韓征伐)を服従させたと言われています。

三韓征伐に際して、この地で天の神、地の神祈りを捧げて、必勝を祈願し無事に帰国されたとのことです。

その祈りを捧げたところに、鏡山大神社という神社が建てられ、その後に仲哀天皇も伴祀されたと言われています。

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鏡山大神社の階段

なんとその時皇后は身重の体で三韓征伐を成し遂げたと言われているようです。その後、生まれた皇子が天皇に即位されるまで、70年の長きにわたり摂政を務めたとも言われています。

この地の風土記には、山の上で国の様子をご覧になり神々にご加護を願われ鏡を用いて安置されたところ、その鏡が石になったと記されています。山を下りられて、この池の水を鏡にされてお顔や御髪を直されたと言われているようです。

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    鏡ヶ池(左) と 風土記が記された碑(右)

 夫の遺志を成し遂げるほど、深い愛があったのではないか、と想像します。

同時に強い女性であったと思います。涙を堪えて戦う姿が目に浮かびますし、池の水を鏡にして姿を整えたあたりは、女性らしさも感じます。

この辺りは他にも逸話が残っていそう

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官道を示す碑

大和朝廷の時代、この地は官道の駅家(うまや)があったと推定されています。

官道とは、役人の往来、軍隊の移動、租税や産物を都に運ぶ道路のことで、30里(約16キロ)ごとに駅家が置かれていたとか。

太宰府からこの道を通って瀬戸内海を抜けて郁に行くという最短ルートだったようです。

現在の太宰府から豊津の辺りまで、官道が続いていたのではないでしょうか。

いつかその道を歩いてみたいとも思いました。

まとめ

 今回、さほど下調べもせずに「古墳に行ってみたい」という思いで出発したのですが、思いも寄らない古の話を知ることができ、その時代に想いを馳せる事ができました。

私は下調べするとすごく期待してしまう傾向があるので、フラッと立ち寄ってその地域で初めて触れる情報の方が、より新鮮に、鮮明に自分の中に刻まれるのではないかな?と思ったりしました。そういう旅の方が自分に合っているなと思いました。

そして、これらの史跡が長い年月を経て、地域の人々に守られていることを知ることができました。鏡ヶ池などは本当に民家の庭の中に有り、大切にされていました。

心温まるマイクロツーリズムでした。住んでいる地域には、まだまだ知らない歴史がいっぱいありそうです。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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